童謡「赤とんぼ」に秘められた思い


1921年(大正10年)、三木露風が郷里(兵庫県龍野町)の小学校から校歌の作詞を頼まれ、自身の幼児体験を思い浮かべて作詞したものに、1927年(昭和2年)山田耕筰が曲を付けたとされる。

その後、映画の挿入歌やNHK「みんなの歌」(1965年初回放送)などTVでも度々採り上げられ、日本を代表する童謡となった。


露風は、5歳の時に両親が離婚し、以後は祖父の家で子守り奉公に来た姐やに育てられている。

①番の歌詞「夕焼小焼の赤とんぼ 負われて見たのはいつの日か」は、そんな姐やの背中におんぶされ、肩越しに見た夕焼けに染まる赤とんぼの記憶を辿っている。

②番の歌詞「山の畑の桑の実を 小籠に摘んだはまぼろしか」も、薄れゆく記憶を辿っている点では①番と同じ。

ところが、③番の歌詞「十五で姐やは嫁に行き お里のたよりも絶えはてた」で、こちらは大きな疑問に突きあたる。

「お里のたより」とは、果たして誰からの便りで、誰の消息だったのか?

初めはただ、姐やの故郷から送られてくる便りだと聞き流していたが…

「姐やの消息」だとすれば、数え歳15で若くして嫁いでいった姐やは、農家の口べらしで子守り奉公に出され、嫁いだ先でも農家の労働力として働きづめの暮らしを送っているんだろうか?

だが、想像力を働かせると別の考えも浮かんで来る…

つまり、実家に帰った母が離れて暮らす息子を不憫に思い、(実家近くの娘を子守り奉公に出し)時々実家に帰る姐やを通じてお互いの消息を入手していたとしたら、姐やが嫁いだことで「母の消息」も途絶えてしまったということではないのか?と。

④番の歌詞「夕焼小焼の赤とんぼ とまっているよ竿の先」だけが現在形で、大人(作詞当時32歳)になった露風が赤とんぼを見ながら過去を回想しているという説明になっている。


私たちが「赤とんぼ」の歌に物悲しさや切なさを感じるのは、単なる郷愁だけではあるまい。

貧しかった当時の農村の暮らしぶりや、露風の姐やとその背後に見え隠れする母に対する万感の思いが私たちの心を打ち、時代を超えて歌い継がれる童謡となり得たのではないだろうか…

I'd love to see you again

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